■ 秋葉乱舞 / しにを ————朝の光で目が覚めた。 「……ああ、朝か」 暖かい日差しが目に入る。 いい天気のようだ。 今日はいつになく気分良い目覚めだ。 まだはっきりと覚醒しない頭が、なんとはなく嬉し かったという感覚の残滓だけになった夢を急速に忘 れていく…。 どんな夢だったかな…。 うとうとしつつそんな事を思う。 どこからか良い香りが漂って、それも心地よい。 まだ夢とも現実ともつかない境界を行ったり来た りしつつも、だんだんと覚醒していく。 休日の朝にはふさわしい。 ……? なんだろう? ……? 何か違和感がある。 ……? 大きく深呼吸をして、手をそのままメガネの方へ伸 ばす。 頭がまだぼんやりとしていて、眼が線をはっきり認 知しないうちに封じてしまう、毎日の機械的な動作。 が、伸ばされた手はすかすかと何も掴まなかった。 あれ? ここにサイドデスクがあって、手をこう伸ばすとす ぐにメガネに辿り着いて、 辿り着いて、 …… ……無い。デスクごと無い。 何故か手はシーツをぱたぱたと叩いている。 ぼんやりと顔をそちらに向けると、精いっぱい伸ば した手が全然届かずベッドの端をまさぐってるのが 分った。 あれ。ベッドが大きくなってる? ……? 取りあえず、もぞもぞと身体を動かしてメガネをつ かんだ。 ……何か変だ。 起きて事態を解明するとしよう。 機械的にメガネをかけ上半身を起こすと、そのメガ ネがずり落ちてきた。 ……? 鼻の辺りでかろうじてひっかかっているソレをきち んと直し、そしてまたずり落ち、というのを何度か繰 り返す。 ・ ・ ・ ・ その時、初めて気がついた。 おかしい。 メガネの有無に関係なく同じ物が見える。 いや、メガネをしていない時に、ある筈のものが見 えていない。 メガネが無いのに、線が見えない。 線が部屋の何処を見渡しても走っていない。 何が、何が起こったのだろう。 邪魔になったメガネを手にしたまま、ベッドから降 りる。 何かまた、違和感がある。 そう、普段見ている視点より頭一つくらい低い。 恐る恐る自分の身体に目を向ける。 これは何だろう。 細い白い腕、小さな手、ほっそりした指。 すらりとした脚。 ぺたぺたと顔をさわってみると、明らかに遠野志貴 と違った肌触りがする。 さらさらとした髪の毛が背の方まで流れている。 部屋に一つだけある鏡をおそるおそる覗き込む。 そこには見慣れた遠野志貴の顔は無かった。 そこには見慣れた遠野秋葉の顔があった。 「なんだ、これ。秋葉?」 ぺたぺたと頬を叩いてみたり、口を開いたりあかん べえをしてみたり、いろいろと表情を変えてみたりと、 もし端で誰か見ていたら正気を疑われそうな動作を 鏡の前で繰り返す。 鏡の中では秋葉がまったく同じ動作をなぞっている。 こ、これは。 やっぱり、これは秋葉の姿になっている。 奇態な出来事にはこれまで何度も遭遇してきた為か、 妙に冷静に出来事を認識している。 と言うか、あまりにもな現実に、驚く感覚が麻痺し ているみたいだ。 「兄さん、いったい何をやっているんです」 秋葉の口調で声を出してみる。 自分の発声だから多少違って聞こえるが、確かに秋 葉の声だ。 「呆然としていないで、はやく何とかしたらどうな んです」 もう一回口にしてみて、何故か自然と笑いがこみ上 げてきた。 くっくっと笑い、秋葉らしからぬ表情の鏡を見て、 さらに笑ってしまう。 と、トントンとノックの音がした。 「志貴さま、お目覚めになりましたか?」 翡翠だ。 馬鹿みたいな笑いを止めて、はたと正気に戻る。 これは、まずい。 何がまずいか分からないが、まずい。 こんな姿でいるのを翡翠に見られたら。 どう説明すればいいんだ、一体。 でも、部屋に入るなと答えれば、秋葉の声で喋る事 になるし、黙っていれば翡翠は部屋に入って来るだろ う。 ・ ・ ・ いや、仕方ない。いずれはばれる事だ。 どのみち一人で部屋に篭っていても事態の進展は見 られないしな。 「あの、翡翠。驚かないでほしいんだけど。って、 今喋ってるのは俺、いや、志貴なんだけど」 何言ってるんだ、一体。 どう説明したものか狼狽していると、先にドアごし に翡翠が答えてきた。 「やはり、志貴さまも」 さまも……? 「あの、志貴さま、驚かれないで下さいね」 同じ様な事を言われる。 何処か安堵したような口調、 ………ん? 今の声。 まさか。 「翡翠だよな?」 「そうです。志貴さま」 「その声……。分った入ってきてよ」 ドアがゆっくり開いて、翡翠が部屋に入ってきた。 挙動は普段と変わらず、姿勢良い歩き方でこちらに 向かうと一礼をした。 「おはようございます、志貴さま」 「おはよう、翡翠」 事態の悪化を認識しつつも、どことなく安堵めいた ものが心に生まれていた。 翡翠もまた、秋葉の姿をしていた。 「やはり志貴さまも秋葉さまのお姿になっておられ たのですね」 「うん、目覚めたら、秋葉になってたんでびっくり した。ま、今目覚めたところなんだけど。翡翠も変わ ってたとはなあ。もしかして、琥珀さんも?」 「ええ、姉さんも目覚めたら秋葉さまのお姿になっ てました」 ふーん、きっと大騒ぎだったろうに知らずにこっち は眠っていたのか。 「じゃ、秋葉は?」 「秋葉さまは、秋葉さまのままです」 「そうか、俺とか翡翠や琥珀さんになってるよりは 良いかな」 良いのかな? 「それで、3人で事態を確認して、志貴さまはどう なったのだろうと思ったのですが……」 ……? そう言えば自然に気持ち良く目覚めたと思っていた が、よく考えるといつもよりだいぶ遅い時間まで放っ ておかれたようだ。 いくら休みの日とはいえ普段ならとっくの昔に起こ しに来る筈だ。 「みんな様子を見に行きたかったのですが、もし志 貴さまもお変わりになっていたらどう説明したもの かと躊躇しまして。 秋葉さまのお姿で3人して参るのも問題があります し。結局いつも通り私が起こしに行くという事に」 「そうかあ。じゃ、下で秋葉と秋葉の姿の琥珀さん が待っているんだね。 ところで、翡翠?」 なんでしょうか、という仕種で首を傾げる。 うーん、翡翠の動作を秋葉がやってると違和感があ るなあ。 「なんで、いつものメイド服じゃないの?」 翡翠さんのいつもの服装の秋葉、というのもちょっ と見たいような怖いような気がするが、ともかく今は 翡翠は秋葉のいつもの服を着ている。 「秋葉さまが、何故か私と姉さんが着替えるのを嫌 がって。目覚めた時、この格好でしたのでそのままに しております」 指摘されて、ちょっと落着かなそうに翡翠は言った。 「ふーん。そう言えば姿だけでなく着てるものまで いつの間にか変わってたんだよな」 「ともかく、志貴さまもとりあえずそのままの姿で 下までいらしていただけませんか」 「分った」 居間では、二人の秋葉がお茶を飲んでいた。 「おはよう、秋葉。琥珀さん」 ぱっと二人はこちらを見て同じような「やっぱり」 という顔をした。 「で、何でこんな事になったんだ、秋葉?」 秋葉がこちらを睨む。 「私に分かる訳ないでしょう。 ………よく私が秋葉 だと分かりましたね、兄さん」 睨み顔が、ちょっと嬉しそうな顔に変わる。 「そりゃ、怒った顔と笑ってる顔があったら、どっち が秋葉かすぐにわかるよ」 笑顔が怒った顔に戻る。 「兄さん、私をどういう風に思っているんですか?」 実際のところ、まったく外観上同じとは言え、ただ 座っているだけでも秋葉か琥珀さんかは何とはなく 分かる。さっきの翡翠みたいに言葉を交わすと微妙な 仕種や表情の違いがより強調されるし。 「それにしても、兄さんまで」 「4人になっちゃいましたねえ」 琥珀さんが立ち上がってお茶を入れてくれる。 「ありがとう、琥珀さん」 秋葉の顔で満面の笑みを浮かべながら(ちなみに凄 い違和感がある)琥珀さんは頷くと、翡翠共々後ろに 引っ込んでしまった。 香りのよいお茶を一啜りして、おもむろに口を開く。 「で、これからどうすればいいんだろう?」 「だからなんで、こんな時だけ私の言う事に従おう とするんです? 普段なんか、私の言う事なんかちっとも聞いて下さ らないのに」 そう言えばそうなんだが、唯一無事だったのが秋葉 だし。 「じゃあ、とりあえず打つ手無しか」 「そうですね。いろいろ兄さんが眠っている間に皆 で考えてみたのですが、さっぱり」 「まあ、常識はずれな事だから、考えても解決しな いだろうしなあ。もう一回寝直したら元に戻らないか な」 「兄さんらしい、安易な御提案ですけど、実際に出 来る事はないのは確かね」 沈黙。 「ところで、兄さん。ずいぶんとお寝坊だったよう ですけど、部屋てお一人の間、私の体で変な事してい ないでしょうね?」 妙な眼でこちらを見る秋葉。 「変な事って? ・ ・ ・ おおっ、そうか、そうだよな。しまったもったいな い事をしたな」 「兄さん、なにを考えてるんです」 真っ赤になって秋葉が叫ぶ。 「冗談だよ。正直気が動転してそれどころじゃなか ったし。そんな後でどんな目に会うか分からない危険 な真似はしないよ」 ちょっと興味が無い訳じゃないけど、お互い気まず くなりそうだしな。 あれ、でも、 「あの、秋葉さん」 「なんですの、兄さん」 「どうしよう。凄くまずい事になった」 「だから、何なんです。そんな泣きそうな顔をしな いで下さい」 「だから、その」 こちらを見ていた琥珀さんが近寄ってきて声を掛け た。 「あの、志貴さん。もしかして御不浄に…」 「……うん」 「それなら、さっさと………駄目です。許しません」 確かに。でも、このままこうしている訳にも。 「志貴さま、失礼しますね」 そっと傍に寄った琥珀さんか、何かハンカチのよう なものを素早く顔に当てた。 「何を?」 言いかけて、 何か薬品の匂いがして…して…し…て… ・ ・ ・ ・ ・ 意識が戻った時、その感覚は消えていて、ニコニコ と笑っている琥珀さんと真っ赤な顔をした秋葉と翡 翠に囲まれていた。 「あの、一体」 「却下です」 ・ ・ ・ 「……了解しました」 気を取り直すように琥珀さんが皆に声を掛けた。 「せっかく皆揃ったんですし、そろそろ朝御飯にし ませんか?」 「そうね、もう早めの昼食って時間だけど」 休日の食事は、翡翠と琥珀さんも一緒に取る習慣に なっている。テーブルの向いにも右にも左にも秋葉が いるのがシュールで何処か笑いをさそう。 香ばしい匂いのトーストや、野菜を裏ごしして作っ たスープ、炒めたベーコンや茹でたてのソーセージな どが湯気を立ててテーブルに並んでいる。 翡翠が野菜サラダを盛った皿を運び、最後に琥珀さ んが大きなオムレツをのせたフライパンを運び一人 一人に取り分けた。 いつもながら、美味しそうな食事である。 「いただきます」 「いただきます」 「いただきます」 「いただきます」 急に空腹を感じてしばし食事に専念する。 この噛み切るとパキパキいう熱々のソーセージが美 味しい。火加減が絶妙なオムレツがまた絶品。 うん…? が、なにか妙に食べずらい。 トーストを頬張りかけて気づいた。 「秋葉って、口が小さいんだな」 きっと睨まれ、あわてて訂正する。 「いや、普段と比べて。女の子だものな」 つと、横に目をそらす。 「琥珀さんは、秋葉の体で違和感はないの?」 「それは、ありますよ。うーん、秋葉さま普段あま りお笑いにならないから、ちょっといつもの表情する のに顔の筋肉がつっぱっちゃいそうです」 確かに、ニコヤカな顔している秋葉かちょっと変。 「そう言えば、ちょっと不思議なんだけど、秋葉に なっても琥珀さん料理の腕はそのままなんだね。やっ ぱ中身が重要なのかな」 「うーん、そうとは言い切れませんね。知識として は前も今も当然変わらないんですけど、体で覚えてる テクニックは軒並み低下しちゃってます。だからちょ っと手の込んだ料理はパスさせてもらいました」 「ふーん。そんなものかな。翡翠は?」 「それはやはりいつもとは違います。あと普段と違 う格好してるのが慣れなくて」 「なるほど。そう言えば秋葉、秋葉の体になってる からだと思うんだけど、今はメガネしてなくても平気 なんだ」 「と、言うと兄さんの持ってる能力が無くなってい ると言う事ですか?」 「うん。やっぱり眼の造りが違うからかなあ」 「と言う事は、琥珀と翡翠の感応者としての力も今 は使えないのかしら」 「使えないかもしれませんね」 コクリと翡翠も頷く。 トマトを突ついていた翡翠がポツリと言った。 「そう言えば、昨日お見えになったアルクェイド様 とシエル様はご無事なのでしょうか?」 と、その言葉を待っていたように、外から声がした。 「遠野くん」 「志貴、入れてよ」 二人の声もまた、秋葉の声だった。 そして新たに秋葉が二人増えた。 「あっ、いいもの食べてる」 遠慮ないアルクェイドの声に、琥珀さんがさっと席 を二つ作っててきぱきと皿を並べた。 「すみませんね、お食事中とは思わなかったので」 「いいよ、先輩。遠慮なく。でもアルクェイドって 空腹とか縁が無いんじゃないのか?」 「本来はね。でも妹の体のせいだと思うけど、きち んとお腹が減ってるよ」 「それはそうか」 吸血鬼の体じゃないんだから、そうなのだろう。 しばしアルクェイドとシエル先輩の食事風景をぽー っと眺める。 やはりどっちがアルクェイドでどっちがシエル先輩 か一目瞭然だ。 と、アルクェイドの姿が妙にボロボロになってるの に気がついた。 服がところどころ泥塗れになっていたりひっかき傷 があったり。 「なあ、アルクェイド」 「なになに、志貴」 「ここに来るまで何かあったのか? やけにダメー ジ食らってるみたいに見えるけど」 「うーん。普段通り行動しようとしたら、酷い目に 合っちゃった。妹ってば脆すぎ」 「普通の人間は、邪魔だからって車持ち上げて下を 潜ろうとしたり、背丈より高い塀を跳び越えようとし たりは、しませんよ」 紅茶を啜りながらシエル先輩が冷静にかつ馬鹿にし た口調でポソリと呟く。 「うー」 「そんな真似をして良くご無事でしたね」 嫌な顔をしつつ秋葉がアルクェイドの方を向く。 「まったく、出掛けに部屋から飛び降りて、死にか けただけじゃ物足りないんですからね」 「うー」 アルクェイドの部屋って何階だったっけ。 「なんで、それで無事なんだ」 「たまたま、私が近くにいたんで助けたんですよ」 それから此処に来るまでこのお馬鹿さんは、何度も 何度も自殺紛いの真似を連発してくれて」 「ふーん。でもシエル先輩がアルクェイドの処行く なんて珍しいね」 「いえ、朝目を覚まして、これはあの吸血鬼の仕業 に違いないと思って、会いに行ったんですよ。あいに く出てきたのは秋葉さんの偽者でしたけど」 「そうなんだ。で、なんで私の仕業って事に決めつ けるのよ」 「他に誰がいるんです。遠野の皆さんは常人じゃな いですけど、この手の出来事には縁遠いでしょう。こ んな魔術じみた事に関係するという貴方くらいじゃ ないですか」 「シエルを妹の姿にしてなんの得があるっていう のよ」 「そんな事はわかりませんよ。少なくとも私の力は だいぶ低減してますよ」 「って事は先輩はもう、復元能力は無い訳?」 「ありませんよ」 左手を広げてヒラヒラとさせる。ついで右手を思い 入れたっぷりに振ってみせる。 手品のようにシエル先輩の手に果物ナイフが現れ、 何をするのか眺めていると、それは無造作に振られ、 左手の人差し指をかすめた。 薄い線が指の先を走った。血も滲まない程度の小 さな傷だったが、それは消え去らずそのまま残ってい た。 「ほらね。今は秋葉さんの身体能力と同じなんです よ。今なら……死ねますね、簡単に」 「今も話していたんだけど、元の自分が出来た事は 秋葉の体だと出来なくなるのかな」 「先天的な、というか肉体に依存する能力は失われて いるようですね。例えば、遠野くん、メガネをしてい ませんけど、線は見えないでしょう?」 「うん。それだけは正直嬉しい。 裸眼で普通に景色見るのってこんな風だったんだよ な」 シエル先輩がちょっとだけ、痛ましいものを見てい るような顔をして、また表情を戻した。 「私の場合、自分の魔力に特化した力は軒並み無く なってますが、道具自体は使用出来ます。もっとも跳 んだり投げたりの能力は、秋葉さんの肉体能力の範囲 なので著しく軽減されてますけど」 「そうだよ。私も完全に無力化しちゃってる」 じっと会話を傍観していた琥珀さんが質問した。 「あの、では逆はどうでしょう?」 「逆と言うと何?」 「ですからね、秋葉さま、というか遠野よりの力は 今の私達も持っているんでしょうかね?」 そう言えばそうだ。 「ああ、それは本質的に有ります。例えば…」 シエル先輩の周りが何か圧縮して、淀んだ。 恐らくは、今の眼では見えないけれど、髪を模した ような力が発生している。 「こんな処ですか。私の場合、自分の体にある魔力 を引き出す術を知っていて、かつ秋葉さんの能力がど んなものか知識として知っているから、かろうじて真 似事が出来ます。でも、琥珀さんや志貴くんにやって みろと言ってもすぐには出来ないでしょうね」 「アルクェイドは?」 「出来るかもしれないけど、難しいかな」 ちょっと考えてアルクェイドは答えた。 「どうして?」 うーんと、考え込むアルクェイドに代わってシエル 先輩が回答してくれた。 意外と解説役が似合う人だ。 「例えば火を消すという行為で言うと、彼女の場合、 普段が無尽蔵のタンクから高圧ホースで水を撒き散 らしているみたいな力の使い方なんですよ。一定量の バケツの水に制限されて水鉄砲で的に当てる真似は 難しいんですよ」 良くは分からないが納得。 「私の体がどうしたというお話も結構ですが、結局 の所、お二人は何をしに来たんです?」 「それは、こんな貧弱な姿になったんじゃ怖くて一 人でいられないし、此処に来れば何とかなりそうな気 がしたから」 「一人で部屋に篭っていても埒があきませんから」 なんだ、結局進展は何もなしか。 「困りましたねえ」 全然困ってなさそうなニコニコ顔(かなり違和感有 り)で琥珀さんがのんびりと皆の気持ちを代弁する。 ただし、この人の場合、内心では凄く困っていても 表面には出しそうもないから、実は本当に困っている のかもしれない。 ———その時、何かが歪んだ。 瞬間的な地震のような、飛行機が気流差でふっと落 下するような、眩暈にも似た揺らぎ。 大げさに言えば世界が変わったような、何かが起こ った。 そう感じたのは俺だけではないようで、皆不審な顔 をして辺りを見回したりしている。 特に、シエル先輩とアルクェイドは眼にみえて緊張 感を露わにしている。 「今のは……?」 「何か来ます、皆さん気をつけて」 自然に皆がこちらに集まり、口を閉じてその何かを 待った。 静寂の中、神経が研ぎ澄まされて行く。 カツ、カツ、カツ。 足音が聞こえる。 食堂の扉に向って近づいている。 「誰……?」 背後から小さな呟き声。 カツ、カツ、カツ。 ………。 扉の前でピタリと止まる。 すーっと、ほとんど音も無く扉か開いた。 息を呑んで見守る中、入ってきたのは…… 意外にも見知った顔だった。 見慣れない服装ではあったが、それは…… 「えっ、シエル先輩?」 「シエルさん?」 「シエル様?」 「シエル!?」 「…シエル様!?」 いっせいに叫ぶような声があがった。 いつものニコニコとした笑顔でなく幾分無表情な感 はあるけれど、それはシエル先輩だった。 「って、誰ですあなたは一体!」 ただ一人驚きの渦から外れていたシエル先輩がずい と前に出る。怖い顔をしてその自分の姿を睨みつける。 「魔法使い、ですね」 シエル先輩の姿の何者かが、肯定するかのように頷 く。 「うわあ、最悪。嫌な奴が嫌な姿で現れるなんて」 じっとシエル先輩の姿を見つめていたアルクェイド が、露骨に嫌な顔をする。 って、アルクェイドだけはこのシエル先輩が誰なの か分かったみたいだ。 「知っているのか、アルクェイド」 「知ってる。志貴も知ってる筈だよ。ま、姿形は違 ってるけど、魔法使いなんてそんなあちこちにいるも んじゃないんだから」 そりゃ魔法使いなんて者はそうそこらにいないだろ うけど。知り合いの魔法使いって言ったって、思い当 たるふしが無い……。 ………いや、一人だけいる。でも…!? 「まさか、先生なんですか?」 恐る恐る、シエル先輩の姿の人に尋ねる。 「元気そうね、志貴。って、まあそんな姿になって るのに言うのもどうかな」 姿こそシエル先輩だったけど、その声、子供の頃に 遠野志貴を救ってくれた魔法使いの声、と同じ。 「先生」 じわりと涙が滲んできた。 言いたい事は山の様にあった筈だが、唐突すぎて、 そして今の状況が異常過ぎて上手く言葉にならなか った。 ………。 「あのう、兄さんと面識がおありのようですけど、 貴方はどなたなんです」 二人の空間が止まっているのを見かねて、秋葉が水 をさす。 「蒼崎青子。彼が子供の頃に会った事があるの。そ っちのお姫様にも因縁があるけどね」 「何しに来たのよ、ブルー。それにその姿はいった い何なのよ」 「そうです、なんで私の姿なんです。……いえ、良く みると何処か違いますね」 次々に来る質問を制するように手の平をこちらに向 け、先生は自分の家のように自然に食卓の椅子に腰掛 けた。 それを見て琥珀さんがお茶の入ったカップをそっと 前に置く。 「ありがとう、琥珀さん」 いえいえ、と琥珀さんも当たり前のように、答える。 やっぱり琥珀さんは凄い人だ。 見るといつの間にか食事の時の皿なども奇麗に片づ けられている。 何時の間に…。 「簡単に言うとね、貴方達の今陥っている事態を解決 するために此処に来たのよ。それと、この姿を取って るのはいつもの姿で此処に来るといろいろマズい事 が起きちゃうから、一時的に身体を借りてるの」 答えられはしたものの、何が何なのかはさっぱりわ からない。 先生は言葉が足りないと見て取ると、一回頷いて説 明モードに入った。 皆、拝聴する体勢を取る。 「じゃあ、もう少し細かく。 今貴方達がいるのは、本来いた処でなく一種の閉鎖 空間の中なの。原因については説明が困難かつ普通の 人にはタブーなので省略。まあ、事故が起こったと思 ってくれればいいわ。世界と遠野秋葉だけが吹っ飛ん でしまう筈だったのに、どういう訳かその時にいた志 貴や家の人達も一緒になったようね。面白い現象だわ。 そして、一緒になったのは良いけど、此処の世界では 遠野秋葉しか存在を認められていないから、他の人達 も秋葉さんになってしまった。と、同時に個々の存在 を消失させる訳にも行かないので、精神はそのまま遠 野秋葉の中に宿った。取り敢えず、今の状態はそんな 処ね。質問どうぞ」 「なんで私がそんな目に合わなくちゃいけないんで す?」 「たまたま、なの。運が悪かったわね」 「誰かがやったみたいな言い方ですけど、そんな凄 い真似誰がしたんです?」 「世界自身がやってるの。綻びを直し矛盾を修正す る働き。そこの埋葬機関の方が不死身なのと似ている わね」 「じゃあ、何でブルーは妹にならずにそんなシエル もどきの姿で平気なのよ」 「はい、では次の説明。私も此処を見つけて「渡る」 事は出来るんだけど、同じように遠野秋葉に変えられ てしまうか、元の存在であり続けようとすれば弾き飛 ばされるか、なの。 まかり間違えばこの世界に「な かった事」にされて存在抹消されてしまう危険性すら あるわ。で、取ったのがこの姿。言っておくけど、こ れは貴方達が知っているシエルではないわ。よく似て いるけど別な存在。名前は知得留先生。幾つもの世界 と繋がりつつも相互干渉をせず、独立した観察者とし て、とある限定空間に住まう特殊存在。だから、彼女 はこの世界にも異物と認識されつつも存在が許され る。極めて都合良い存在ね。肉体的なポテンシャルも 素晴らしいし。それをちょっと間借りさせてもらった の。もう一匹ぶーたれてる猫もいるけどそんな姿にな るのは私の美意識が許さないし。」 何故かアルクェイドの方を見ている。 「…ええと、つまり貴方は私でなく、たまたま似た 姿なんですね」 「そうよ。まあ、偶然の一致って訳でも無いけど、 あまりつっこまない方が利口ね」 「で、結局何をするのよ?」 「お馬鹿さんね、あなたは。貴方達の今陥っている 事態を解決するためにこの世界に来たって最初に言 ったでしょ。 今、此処だけでなくあちこちで大変なのよ。私まで 駆り出されたくらいなんだから」 さてと、と呟くと背後から冗談のように大きなハン マーを先生は取り出した。 「私、壊す方が得意だからちょっと乱暴になるけど ……」 皆が見守る中、先生は自信ありげな様子であちこち 見て歩き、ある柱の前で満足そうに頷いた。 「ここが中心ね」 両手で軽々とハンマーを振り上げる。 「何をするつもりです」 「世界を破壊するのよ。そしてその修復反動で元の 世界に貴方達は戻る。乱暴だけど一番手っ取り早いわ」 「あのう、屋敷を破壊されるのは……」 「大丈夫。元の屋敷は無事だから。 それと、秋葉さん、力を全開にして皆を守って。一 瞬だけでいいから」 あまり納得した様子ではなかったが、秋葉は頷いた。 秋葉髪が赤く染まって行く。 そしてそれに呼応して部屋全体の雰囲気が変わる。 熱いような冷たいような異質の空気が辺りを覆う。 「やはり凄いですねえ」 感心したようなシエル先輩と思われる声。 「じゃあ、行くわよ」 無造作にハンマーが柱に打ち下ろされる。 重厚な打撃音を予測したが、意外にもガラスの割れ たような音が響き渡る。 「これでいいわね。ちょっと反作用が起こるかもし れないけど、それは自然修復するから。 それと今回の事は、元の世界に戻ったと同時に無か った事になって、記憶から抹消されるから。せいぜい 夢で何かあったなと覚えてる程度で」 そう言いひらひらと、手を振ると、先生は柱に出来 た裂け目に跳び込んだ。 「志貴、また会えるといいわね。 元気でね」 それに答えようとした時、裂け目の向こうで爆発音 がした。 そして世界が壊れた。 壁も空間も何も線が走り裂けて行く。 いつものなじみの脆い世界が本当に崩壊して行く姿 に震えが起きる。 「兄さん、早くこっちに来て下さい」 秋葉に引っ張られ、 周り全てが崩れ、 全て光に包まれ、 そして、意識を失った………。 アア、マタ、センセイニアリガトウのヒトコトガイ エナカッタ… ・ ・ ・ ・ ・ ————朝の光で目が覚めた。 「ああ、朝か」 いい天気のようだ。 休日の朝にはふさわしい。 ………… ガバッと上半身を起こして自分の体を見回す。 安堵の溜息が洩れる。 これは確かに、遠野志貴の身体だ。 「戻ってる…」 あ、声も確かに自分のものだ。 何より、部屋中に走っている線。 これを見て喜びを感じる事があるなんて思いもよら なかった。 でも、何より遠野志貴に戻った証だ。 「ありがとう先生、おかげで元に戻れました」 既に遅い感謝の言葉を口にしてみる。 確かに自分の声だ。 トントン。 控えめなノックの音がした。 「翡翠かい? 起きたよ。見てよ、無事元に戻れた」 あまりに有頂天になっていた為だろう、何故、翡翠 がいつものように起こしに来なかったのだろうとか、 先生が言ってた「揺り返し」とやらはどうしたのだ ろうとか、 翡翠が「はい、志貴様」と小さく答えたその声がど こかおかしくなかったかとか、 そういった事はまったく頭に無かった。 何より「元の世界に戻ったら記憶が抹消される」筈 なのになんで克明に覚えているのだろうとは、まった く疑問に思っていなかった。 そう、翡翠が恐る恐るといった様子で部屋に入って 来るまでは。 ・ ・ ・ ・ ・ 今度は、翡翠は遠野志貴になっていた。 /END